はじめに
コロナ禍となって4年目となる今年(2023年)は、世の中がコロナとの共存に舵を切りはじめた年となった。人々の移動制限・マスク着用が緩和され、禍中に最も大きなダメージを受けていた観光地にも活気が戻ってきている。コロナ禍で疲弊してしまった地域にとって、さまざまな産業にその恩恵が波及する観光業の復活は、注力すべき課題の1つとなっており、以前にも増して地域の魅力を高めて、それをアピールする必要に迫られている。
人々の注目を集めて、訪れてもらう地域となるために、他所との差別化を図るべく“アルベルゴ・ディフーゾ”なる手法を採用、展開している地域がある。本稿では、この少し言いにくく、かつまだあまり聞きなれないこのアルベルゴ・ディフーゾのわが国における展開について考察する。
[※本稿の表や写真のなかには、クリックすると拡大できるものがあります]
Ⅰ.アルベルゴ・ディフーゾについて
1. アルベルゴ・ディフーゾとは
アルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Diffuso。以降ADと表記)とはイタリア語で、“アルベルゴ”は「宿」、“ディフーゾ”は「分散した」を意味しており、直訳すると“分散型の宿”となる。分散型の宿では、宿泊は宿に泊まるが、食事や入浴はその宿泊先の周辺にある飲食店やカフェ、銭湯や温泉を利用する。つまり、ADとは、建物単体ではなく、地域一帯をひとつの宿と捉えることであり、街全体をホテルとみなして“宿”という機能を分解、それらを街なかに設けることで、観光客と地域の交流を促していくことを意味する。
通常、ホテルにはレストランやバー、お土産屋などがあり、様々な催しが開催されるなど、建物内であらゆるサービスが完結してしまうが、ADでは、街や地域全体がホテルそのものという発想であることから、街なかの複数個所でサービスやおもてなしが行われる。
2.発祥はイタリア
ADは、1980年代初頭、北イタリアにある廃村寸前の小さな美しい村々を復興するプロジェクトの一環として、観光マーケティングを専門とする経済学者ジャンカルロ・ダッラーラ教授により考案されたものである。これは、観光客がなかなか訪れない歴史ある小規模な村や町に、観光客を呼び込んで人口減を防ぐことを目的に、空き家を有効利用しようというものである。この新たな考え方は、90年代になるとイタリア各地に広がっていった。
3.ADの特徴
(1)ADは〝SDGs〟
ADの取組みでは、宿も街並みも、全て元々そこにあったものを再利用するというのが原則であり、その本質は、“持続可能である”ということにある。地域の過疎化を食い止める鍵は、持続可能な経済を生み出すことであり、持続可能な世界を築くことを目指すADは、まさしくSDGsそのものである。
(2)地域をアピールすることができる
ADでは、従来型の旅行で観光客が宿と観光地を行き来する「線」の動きを、地域全体を宿泊施設にすることにより、集落を散策する必然性を生じさせて「面」にする。つまり、地域の店や風景、住民と触れ合う機会が増えるために、地域の魅力や文化を観光客に伝えやすくすることができる。地域との交流が図れることから、観光客に当地の魅力に気が付いてもらいやすくなるのである。
古い空き家を格安で買い取って、観光客が快適に過ごせる空間と設備を提供する。それにより、豪華なホテルとは異なり、我が家のような宿で過ごすことができて、まちの住民と触れ合う。このような経験をした観光客が地域のファンとなってリピーターとなり、他の人にもその地域への訪問を推薦するという、好循環が生まれる。
4.ADの要件
ADの要件は以下のとおり。
5.ADのコンセプト
ADには、3つのコンセプトがある。
(1)アルベルゴ・ディフーゾ(AD:分散型ホテル)
地域まるごとホテル。レセプション機能を持つ中核的な拠点を中心として、宿泊施設やレストラン等を水平的にネットワーク化した取組み。
(2)オスピタリタ・ディフーザ(OD:分散されるおもてなし)
基本はADと同じだが、ADは、レセプション機能を有する中核施設から半径200m以内に関連施設が集約されるのに対し、ODでは取り組む範囲がより広範(レセプション施設からおおむね1km)となる地域が一体となり行う取組み。
(3)アルベルゴ・ディフーゾタウン(ADT:自治体への認証)
地域の持続的な発展を目指す地域について、一般社団法人アルベルゴ・ディフーゾインターナショナル極東支部が、ADやODを計画・推進している自治体を認証するもの。
6.ADに取り組む地域
わが国では2018年3月に、岡山県矢掛町の宿泊施設「矢掛屋INN&SUITES」がアジア&国内初のADに、矢掛町が世界初のADTに認証されて以降、2022年12月に、以下の各地が3年後の本認証を目指すスタートアップ認証となっている。
(1)山梨県身延町「株式会社鶴林精舎」
日蓮宗総本山の久遠寺(身延山)があるが、来客の減少から、新たな切り口での集客を模索するなか、ADに着手している。
(2)宮城県蔵王町「蔵王農泊振興協議会」
農村を守りながら、障害者も含めて誰でも安心できる街づくりを進めている。空き家を活用した宿泊施設の整備、ADによる関係人口や雇用創出に取り組む。
(3)岩手県八幡平市「株式会社八幡平DMO」
スキーリゾートとして発展してきたが、スキー人口の減少、高齢化も進むなか、次の50年に向けた観光政策を推進中。空き別荘や空きペンションを一棟貸し宿泊施設として再生するなど、世界初のOD認証となった。また、「八幡平エリア」は今年3月、観光庁「地方における高付加価値なインバウンド観光地づくりモデル観光地」の11モデル地域の1つにも採択されている。
(4)長崎県平戸市
平戸城の天守閣改修や電柱地中化など景観整備を行ってきたが、人口減少に伴う新しい街づくりのスタートとしてADTの認証取得に着手する。新しい非日常を旅行者に提供することで観光による地域活性化を推進する。
Ⅱ.国内におけるADの先進地、矢掛町
1. 岡山県矢掛町について
矢掛町は、岡山県の南西部、小田川流域を中心として開けた中山間地域に位置しており、面積は90.62 ㎢、人口13千人の町で、東西に私鉄・井原鉄道井原線が走っている。この町の中心街“矢掛宿”は、江戸時代に旧山陽道の第18番目の宿場町として栄えたところであり、当時は、参勤交代で年平均14家の大名が街全体に宿泊していた。
矢掛町には、国指定の重要文化財に登録されている大名が宿泊する本陣と、家老などその重臣が宿泊する脇本陣が全国で唯一共に現存している。また、町が1993~2007年度にかけて行った街並み景観整備事業により、72軒の建物の外観を整備しており、江戸時代だけではなく、明治、大正、昭和(戦前)の建物が混在しているなど、往時の町並みが今も残る。
2.古民家の活用
(1)交流施設と宿泊施設を整備
矢掛町では、2012~14年度にかけて、町が所有して活用を検討していた3つの古民家「旧谷山邸」と「旧赤澤・守屋邸」、「旧竹内邸」を、観光客だけではなく、町民も楽しむことができる交流施設として、また、元・宿場町なのに泊まるところがない現状を変えるための宿泊施設として、それぞれ2014年に旧谷山邸を観光交流施設『やかげ町家交流館』に、翌15年に旧赤澤・守屋邸を宿泊施設『矢掛屋INN&SUITES』、旧竹内邸を温浴施設『矢掛屋別館 湯の華温泉』として改修、整備した。
(2)地元民間業者の参入
2017年、所有者が約1億円を投じて、100年にわたり受け継がれてきた木材加工所を改修し、江戸時代の米蔵をイメージした観光交流拠点『矢掛豊穣 あかつきの蔵』をオープンした。
同所は、備中地域の特産品をはじめとした土産物や伝統工芸品、雑貨などを取り扱う住民と観光客向けの物産店のほか、江戸時代の伝統工芸に触れることのできる木樽製作の体験工房「福来樽(ふくきたる)」、地域食材を活用したフレンチ・イタリアンなどの飲食機能を備えた最大120名収容できる完全予約制バンケットホール、の3施設で構成されている。
3 観光を地域の産業に
矢掛町は、それまで観光による地域活性化を重視していなかったが、3棟の古民家改修を機に、さまざまな産業に大きな影響を与える産業、観光業を町の主要産業にと、2015年度を「観光元年」と位置づけて、観光による町の活性化に本格的に取り組み始めている。その取組みについては次の通り。
2019年は、商店街に等間隔で置き行灯を設置して、往時の雰囲気を醸し出す観光ライトアップを開始し、旧宿場町「やかげ宿」の歴史的街並みのブラッシュアップを図っている。一方、同年発足した「一般財団法人矢掛町観光交流推進機構(やかげDMO)」は、矢掛町の観光をマネジメントし、柔軟かつ迅速な取り組みを行う、観光地経営の舵取り役となる組織である。
また、2021年3月にオープンした道の駅「山陽道やかげ宿」は、JR九州の豪華寝台列車「ななつ星in九州」をデザインしたことで有名な、岡山県出身の工業デザイナー・水戸岡鋭治氏が、そのデザインや内部の監修を務めており、ななつ星と同じ素材のものが使用されている。
ここは、物販や飲食コーナーを設けていない全国的にも珍しい道の駅であり、矢掛町の新旧が混在する現代の宿場町としての形を形成している。
4 地元商店街の活動
旧山陽道沿いにある矢掛商店街は、大河ドラマで有名な篤姫(天璋院)が矢掛本陣に宿泊した際、85本も買ったとの記録が残る名物“柚べし”で有名な1830年創業の老舗和菓子店『佐藤玉雲堂』や、手焼きの様子を見ることができる1960年創業のせんべい屋『ぼっこう堂』など、個性豊かな店が店舗を構える商店街である。この商店街では、旧矢掛宿を盛り上げようとさまざまな取組みが行われている。
(1)道の駅の設立や店舗の出店に協力
矢掛商店街で、明治20年代に創業(文具店となったのは大正元年)し、昨年(2022年)に創業130周年を迎えた有限会社佐伯文具店の社長、佐伯健次郎氏は2016 年、任意団体「やかげまるごと観光隊」を結成して、民間からも町を盛り上げる活動を始めた。
佐伯氏は、同年設置計画が立ちあがった道の駅「山陽道やかげ宿」について、全国初の“物販を行わない道の駅”というユニークなコンセプトの実現に寄与した人物である。同氏は、道の駅で物販が行われることで、商店街と競合関係に陥ることを危惧する商店街の意向を汲み取り、物販を行わずに商店街の商品を展示して、それを見て関心を持った観光客を商店街へ誘い、買い物・飲食などと回遊してもらうという、商店街全体を道の駅と捉えた“やかげまるごと道の駅”というコンセプトを商店街から町に発案、観光客の商店街における観光行動を促した。
また、佐伯氏は商店街に点在する空き家や空き店舗について,希望者を仲介して空き店舗の増加を防ぐなど、商店街における古民家利用のマッチメーカーの役割も担っている。例えば、2019年4月にオープンしたチョコレートショップ「石挽カカオ issai(イッサイ)」」や、2021年5月オープンの、カフェと木工作家のギャラリー「ときとま」など、現在の矢掛を代表する店舗の出店に携わっており、矢掛商店街が観光地として恩恵を受ける店を増やしている。やかげDMOによると、矢掛町には、2015~22年の8年間に24店舗が新たに出店しているとのことであった。
(2)イベントの開催や散策マップの作成
佐伯氏は2019年、やかげまるごと観光隊を発展させた「一般社団法人やかげまるごと商店街振興会」を設立し、その代表理事に就任した。そして、翌2020年に経済産業省のコロナ補助金を活用して、自衛隊の協力を得たイベント“やかげまるごとGoTo商店街”を開催した。この一大イベントは約40店舗が出店して、3,000人以上を集客している。さらに、地元のケーブルテレビ局・株式会社矢掛放送とタイアップすることで、イベント会場からのライブ放送を実現、その様子を町内各家庭でも見られるようにした。
次いで2021年3月に手書きマップ「矢掛商店街探索マップ」を作製し、2023年2月には、このマップに町内の小田川やため池に生息する魚たちを紹介するページなどを加えたリニューアル版「やかげまるごと探索マップ」を作製した。DMOなどの観光組織ではなく、商店街自らが町の観光マップを作製して、それを無料配布するなど、矢掛商店街の地元に対する強い思いが表れている。
(3)“大名行列”を海外や東京でお披露目
「矢掛の宿場まつり大名行列」は、1976年9月、台風の集中豪雨により矢掛商店街が甚大な浸水被害を受けたことから、商工会青年部が水害からの復興に向けて取り組み始めたものである。2017年には、米国・サンフランシスコの北カリフォルニア桜祭りが30回記念を迎えるにあたり、関係者から矢掛の大名行列に出場が打診されたことによる初の海外イベントへの出場が実現した。また、今年7月2日に開催された、囃子の流派を超えて「鼓」を愛する人たちが集まる団体「千人鼓の会」の東京公演「千人鼓こころのまつり in 国立劇場」にも、矢掛町から約20名が特別出演した。
(4)これからの予定
現在、一般社団法人やかげまるごと商店街振興会は、今年10月にその開催を予定している、陸上自衛隊の音楽隊約40名によるコンサートの準備に入っており、さらに同月には矢掛町初開催となるeスポーツ大会の準備にも取りかかっているなど、ますます意気軒昂である。
5 国内初のAD、世界初のADT
イタリアの魅力ある小さな村の発掘を行っていた岡山市の旅行会社は、あるNPO法人から、イタリアAD協会の会長(ジャンカルロ・ダッラーラ教授)を紹介された。同社は、インバウンド観光において、外国人観光客のリピーターが、本物を見たいといって訪れる日本らしさを残した地域を岡山県内に探しており、矢掛町をダッラーラ会長に紹介した。
そうして、2018年6月にイタリアAD協会のダッラーラ会長とその調査団が来日して矢掛町を訪問した。この訪問により、宿泊施設の古民家「矢掛屋INN&SUITES」が国内・アジア初のADに認定され、併せて、矢掛町も世界初のADTに認定された。
矢掛町のAD・ADT認定は、元々それを目指していたのではなく、前述の通り、官民が懸命にまちづくりに取り組んだ結果、ADとの接点が生まれた。つまり、想定していなかった“AD”という定義が、矢掛町と「まるごとホテル」の事業に付与された形となっている。
以上、【前編】終了。
【後編】では、長崎県平戸市におけるADTの動きと、AD推進のポイントや効果について述べる。
(2023.7.28 杉本 士郎)