kumam(くむ・あむ) 編集者
一般社団法人 山と海の郷さいかい 代表理事
はしもと ゆうき
1988年長崎県長崎市生まれ。富山大学芸術文化学部にて、伝統工芸やクラフトデザインについて学ぶ。在学中、ニュージーランドへ短期留学したことを契機に、ローカリゼーションやまちづくり、コミュニティデザインといった分野に関心を持つように。2010〜11年、「くらしをみなおす」をテーマとしたフリーペーパーを自費発行。2011年、株式会社ながさきプレスへ入社。2015年より同誌編集長を務め、タウン誌という媒体を通し、まちづくりや地域固有の魅力の再発見・編集・発信に取り組む。2018年、地域おこし協力隊として西海市へ移住。地元有志の皆さんと共に、農林漁業体験民宿事業に取り組み、2020年より一般社団法人山と海の郷さいかいの代表理事を務める。
はじめに
はじめまして、はしもとゆうきと申します。肩書きは「編集者」としておりますが、書籍や雑誌をつくる狭義の編集だけでなく、まちや暮らしをも“編む”広義の編集者として、さまざまな活動に取り組む者です。
私が編集者として歩み始めたのは2010年。大学時代に「くらしをみなおす」をテーマに掲げたフリーペーパー(ZINE)を自費発行し、地元・長崎へ向けて発信したことがはじまりです。2011年には、地域に根ざしたタウン誌を出版する(株)ながさきプレスに入社。約5年間、編集者として長崎のまちを駆け回り、2015年からは編集長も務めさせていただきました。2016年に独立後も、特定の地域の広報物などを手がける機会が多く、2018年には地域おこし協力隊として西海市へ移住。赴任時からのミッションである農林漁業体験民宿事業を推進するため、2020年(一社)山と海の郷さいかいを設立し、現在も西海市を拠点に活動を続けています。
こうした経歴から、私の編集活動は「地域おこし」や「地方創生」といった文脈で捉えられがちです。もちろん、そうした側面もありますが、誤解を恐れずに言えば、私は「地方」や「田舎」を盛り上げようとも、興そうとも思ってはいないのです(!)。そうではなく、衣・食・住に「実感(つまり、このお米は誰々さんの、とか、この魚はどこで獲れた、なんてことが自然と感じられるような……)」が得られる小さな半径での暮らし。持続可能で多様性のある、その土地の理に適った暮らしに、今の社会のさまざまな問題を解決するヒントや可能性があると感じ、それを追い求めて行き着いた先が、まだ画一化・均質化の波が届ききっていない「地方」や「田舎」だった、というだけなのです。
前置きが長くなりましたが、私がこうした想いを持つようになったきっかけや、これまで行ってきた編集活動、そして現在取り組んでいる農林漁業体験民宿事業などについて、お話させていただきたいと思います。
本当の豊かさとは何か? ニュージーランドで出会った暮らし
私は1988年、長崎県長崎市に生まれました。子どもの頃から絵を描くことやつくることが好きで、銅器や漆器で有名な富山県高岡市の大学で工芸やクラフトデザインについて学びました。大学3年生に進級する前の春休み、ニュージーランド(NZ)へ短期留学。そこで受けた衝撃が、今につながる活動の原点となりました。
NZは、1893年に世界で初めて女性の参政権を認めた国です。義務教育の無償化や児童手当、本格的な社会保障制度の導入なども、世界で最初に取り組んだとされています。留学した当時、このような情報を知っていたわけではありませんが、NZ最大の都市であるオークランドのメインストリートで、17時に次々と店が閉まる様子を見たとき、雲がぱぁっと晴れるような衝撃を受けました。短い滞在で、ほんの一面にしかふれられていないとはいえ、「この国の人々は、自分の暮らし、自分の人生において、何を大切にしたいか、その優先順位がはっきりしているのだなあ……」と感心させられたのです。働くことも稼ぐことも大切、でもそれは日々の生活を豊かにする手段でしかない――夕方にはサッと店を閉め、仕事を切り上げ、家族や友人と共に過ごす時間や、自然の中でくつろぐ時間を大切にする人々の姿からは、そんな価値観が伝わってくるようでした。
帰国後、就職活動を目前に控え、私は「何のために働くのか」と真剣に悩むようになります。デザインについて学びながらも、「もう物質的には十分豊かで、こんなにもモノは溢れているのに、まだ何かつくる必要があるのだろうか?」そんな疑問さえ、持ち始めていたように思います。
より豊かに、よりしあわせになるために……と、人は、社会は、発展してきたはずなのに。今や発展そのものが目的となってしまい、その本質を見失ってはいないか。生産性や効率性、スピードを重視するあまり、本末転倒な歪みや不幸が生まれてはいないか……。私は、過労死をする人々や自ら命を絶つ人々のニュースに心を痛め、NZでの日々を何度も思い返していました。
実感の伴うスケールで生きる。ローカリゼーションというあり方
(※以降の掲載写真はクリックすると拡大)
その後、休学して長崎へ帰郷した私は、先に感じた疑問にますます深く向き合い始めます。「よく生きるために働くはずなのに、働いて死ぬなんておかしい」「健やかに生きるために食べるのに、その食べ物が原因で病気になるなんて」。働くことはもちろん、衣・食・住、私たちの暮らしを取り巻くあらゆることに見え隠れする「本末転倒な歪み」。こうした歪みは、何故起こるのだろう? そもそも何故私たちは、こんなにもわかりやすい「おかしさ」に、気づくことができないのだろう? あるいは気づかぬフリをしてしまうのだろう? と……。
その問いに向き合う上で多くの示唆を与えてくれたのが、グローバリゼーションに対する「ローカリゼーション」という考え方でした。「ローカリゼーション」とは、生産者と消費者や、人々と自然界との距離を縮め、地域の中で資源やお金を回し、自立した経済を循環させるという考え方です。身近な言葉に置き換えれば、「地産地消」や「地域のつながりを取り戻すこと」と言っていいかもしれません。そしてそれは、ほんのひと昔前まで、当たり前だった暮らしのあり方です。
自分の仕事は、誰をどう笑顔にし、どのように社会やコミュニティに貢献しているのか。自分が食べているものは、どこでどのように、誰によって作られているのか。人は、「自分ごと」として身近に感じられないことに想像を働かせることは難しいけれど、そこに「実感の伴うつながり」があれば、本末転倒な歪みにもおのずと気がつき、それぞれの人生、それぞれの暮らしで本当に大切にしたいことは何かを、シンプルに考えられるのではないか。それが、私が抱いた問いを解決するための、ひとつの仮説でした。
そうして私は、最初のアクションとして、フリーペーパーの発行を始めます。ペーパーを発行することは手段でしかなく、あくまでも自分が暮らす長崎のまちからローカリゼーションの可能性について探り、暮らしを見直していくことが目的でした。同時にそれは、意図せず「まちづくり」や「コミュニティデザイン」の世界に足を踏み入れるきっかけともなったのです。
タウン誌と、まちづくり
2010〜11年にかけ約1年半発行したフリーペーパーは、私一人で始めた小さな発信ながらも、じわじわと長崎のまちへ広がっていきました。10年以上経った今でも、「あの時のペーパー、持っています」とお声掛けいただくことがあり、つたないながらも純粋な想いとエネルギーを持った発信が、確かに誰かに届いていたことを知るのは感慨深いものです。
一方、私一人が1,000部、2,000部のペーパーを配布したところで、本当にこのまちや社会を変える働きかけとして有効なのだろうか?という焦りやもどかしさもありました。2011年には東日本大震災が起こり、インフラの機能しなくなった都市が大混乱に陥る中、ますますローカリーゼションの重要性を痛感しましたが、自分の無力さ、非力さも、同時に感じることとなりました。
そこで私は2011年、長崎でタウン誌を発行する(株)ながさきプレスへ入社しました。「ながさきプレス」は長崎県内であれば、書店はもちろん、コンビニでもスーパーでも買え、美容院や病院の待合室には必ず置いてあるような、まちの人々にとって最も身近な地域の媒体です。そんな媒体を通し、ローカリゼーションの考え方を伝えることができないか……と言うとなんだかおこがましいのですが、要は「せっかく長崎に暮らしているのだから、長崎のまち固有の魅力を楽しもう!このまちの風景をつくる文化や歴史、個性あふれる小さな個人店(小商い)や生産者を知り、大切にしていこう!」というメッセージを、発信していきたいと考えたのです。
そうしてローカルに根ざしたタウン誌を編むことを、私は「まちづくり」と捉えていました。便宜的に「まちづくり」という言葉を用いますが、私はまちを恣意的に「つくる」ことはできないと思っています。古代、大きな河川のそばに文明が発達したように……まちやコミュニティとは、人が集まり、自ずと形成されていく、自然発生的なものだと考えているからです。であれば、そこで暮らす人々がどんな価値観を持ち、何を大切にして生きるのか、その小さな選択の積み重ねで、このまちの風景は形づくられてゆくはず。タウン誌とは、まちで暮らす人々のそんな「小さな選択」に対し、発見や気づき、きっかけを与えることができる媒体だという意味で、タウン誌を編むことを「まちづくり」の一環であると考えていたのです。
ある人は取材中、「あの店、好きだったのに、いつの間にか無くなっててさ……無くなって初めて、もっと行けば良かったって気づくんだよね。それからはどうせお金を使うなら、できるだけ、知っている人や大切な人のお店で使おうと思って」と、話してくれました。明日、どこでランチを食べるのか。どこで買い物をし、何に時間やお金を投じるのか。その選択は自由だけれど、もし、3回に1回でも、顔の見える生産者やお店を選ぶことができたなら……。持ちつ持たれつ循環する、ゆるやかな地域のつながりの中で、私たちは確かにこの社会やコミュニティに属しているという「実感」や「安心」を、感じられるのではないでしょうか。
より小さなコミュニティへの移住、そして「体験」という新たな伝え方へ
月刊誌の編集はとても楽しく、私を大きく成長させてくれるものでしたが、毎月の締め切りに追われる中で、私自身の生活は、そもそも志したはずの「実感の伴う小さなスケールでの暮らし」からどんどん乖離していきました。このままではいけない、と思った私は、約5年間のチャレンジに一区切りを打ち、独立。思想と実践を一致させてゆくべく、より小さなコミュニティへの移住を考えるようになりました。
そこでめぐりあった土地こそ、今、私が暮らす西海市です。現在、代表を務めさせていただいている西海市農林漁業体験民宿(民泊)事業のパンフレット制作をご依頼いただいたことが、今につながるご縁となりました。取材のために西海市を訪れ、農家や漁家の皆さんに出会った私は、「こんなところに、自分の求めていた暮らしがあった!」と心から感動しました。西海市はひと昔前まで、陸の孤島と呼ばれた僻地。市内に高速道路や鉄道は通っておらず、西海橋や大島大橋が架かっている今でさえ、交通の便は決して良くありません。しかし、その不便さゆえに、今なお昔ながらの暮らしの知恵や伝統的な食文化が息づき、半自給自足的な生活が残っていたのです!
そんな西海市の暮らしの魅力を、農林漁業体験民宿(民泊)を通して、子どもたちや都市で暮らす人々に体感してほしい――地元有志の皆さんの熱い志に、私は深く共感しました。これまでペーパーや雑誌という「紙媒体」を通じてアクションを続けてきた私ですが、百聞は一見に如かず、「体験」という手段でダイレクトに想いを伝えられることに、ワクワクしたのです。そうして私は、2018年に西海市へ移住。地域おこし協力隊として、地域の皆さんと一緒に民泊事業を推進していくことを決意しました。
ローカリゼーションと地域コミュニティ
現在は一般社団法人となった私たちの団体「山と海の郷さいかい」ですが、私が関わり始めた2016年当初は、まだ立ち上がったばかりの任意団体に過ぎず、市内の民泊家庭も10軒ほどでした。そもそも「農林漁業体験民宿」とは平成17年、農林水産省が都市と農村の交流を図るために、「農林漁業体験や交流を提供すること」を条件として、一般家庭でも旅館業法簡易宿所の許可を受けられるよう規制緩和した制度であり、大分県の安心院地域などが先進地として知られています。
西海市は、合併前の旧西海町でグリーン・ツーリズム活動が盛んだったことから、長崎県で最初に農林漁業体験民宿に取り組み始めましたが、合併後は足並みが揃わず、活動は10年以上、下火となっていました。そんな中、県内の他市町が農泊事業に力を入れるようになり、年間数万人という規模で、修学旅行の受け入れを行うように。そんな現状を打破すべく、「もう一度頑張ってみよう!」と声を上げたのが、パンフレット制作を依頼してくださった有志の皆さんだったのです。
活動を共にするようになって目にしてきた皆さんの暮らしは、皆さんにとっては「当たり前」、しかし私にとってはすべてが「新鮮」な暮らしでした。私は西海市に来て、お米やみかんを買ったことがありません。皆さんが「食べんね〜」と分けてくださるからです。「このお米はあのおじちゃん、味噌汁の味噌はあのおばちゃんだし、わかめはあのおばちゃん、煮付けのアラカブもさっきいただいたし……わっ、この漬物も」と、食卓の料理のすべてが、土地のものやおすそわけで完結していることもしばしばです。
最初はこうしたおすそわけや、地域の人々の優しさを、どこかプレッシャーに感じることもありました。都市での消費的な暮らし、等価交換に慣れ親しんでいる私は、「もらったら返さなければ」と無意識に感じていたからです。しかし「等価のお返しをする」ということは、その都度、「相手との貸し借りをフラットに精算する」ということ。あえて貸し借りをつくっておくことが、コミュニティの人々の間にゆるやかなつながりや関係性を担保しているのだと気がついてからは、自然と共にある、しかし常に自然の脅威とも隣り合わせのこの土地における、支え合いや助け合いの知恵なのだと感じるようになりました。
そんな地域コミュニティを、煩わしい、面倒だ、と捉える人も多いでしょう。かくいう私も、時にはこのつながりの深さを、重荷に感じることもあります。移住者やよそ者であればなおさら、こうした狭く親密な地域コミュニティに、うまく馴染めないこともあるかもしれません。しかし、「いつも見られている」と感じるか、「見守られている」と感じるかは、自分次第。台風や豪雨で家の周りに被害が出た時、何も言わずともパッと駆けつけてくれる皆さんの優しさやたくましさにはやはり感動しますし、「ついでだから」と我が家の周りの草刈りまでしてくださるときには、感謝で胸がいっぱいになります。
自分一人の幸福ではなく、いつも周囲の人々や環境にまで気を配る。結局はそのことが、同じコミュニティの中で生きる自分自身の幸福にもつながる。「情けは人の為ならず」を体現するかのように、くるくると、皆さんの優しさや思いやりがコミュニティの中で循環する様子は、まさにローカリゼーション的だな、と感じます。
生き方、暮らし方の選択肢を広げてくれる「体験民宿」
「田舎へ泊まろう」さながら、実際に地域の一般家庭に宿泊して食事や体験を共にする農林漁業体験民宿では、こうした地域コミュニティならではの営みを肌で感じることができます。あれも持って行け、これも持って行けと、おみやげでいっぱいの鞄を抱えて帰るとき、損得を度外視した地域の皆さんの優しさやあたたかさ、贈与的な営みに心打たれるはずです。
それだけではありません。「晩御飯のおかずのなかね〜」と言いながら釣竿片手に海へ行き、「ちょっと緑の足りんね〜」と言いながら畑へひとっぱしりする、そんな皆さんの暮らしを見ると、食べ物は「買う」ことが当たり前だと思っていたのに、「採る」だの「獲る」だの「作る」だの、といった選択肢もあるのだと、なんだかハッとさせられるのです。
あるいは、電気、ガス、水道が止まった時……。薪で湯を沸かし、山や海から食べ物を得る術を知る民泊のお父さんお母さんなら、しばらくは生きていけるでしょう。もちろん、皆さんも普段は文明の利器(?)を使って生活しており、家に大きなテレビもあれば、スマホだって使いこなしています(笑)。一方で、昔ながらの生きる知恵もあわせ持ち、衣・食・住のあらゆることを他人任せにするのではなく、自分の手中に握っている。その強さやたくましさに学ぶことは、本当に多いものです。
昔ながらのかんころもちづくりや、西海市の特産品であるみかん狩りなど、食の体験も充実
2016年に発足した「山と海の郷さいかい」の民泊家庭は、2022年現在、40軒を超えるまでに成長しました。2018年、たった1校から始まった修学旅行の受け入れも、現在では年間2,000名ほどの予約をいただいています(※2020〜21年は、新型コロナウイルスの影響で受け入れできていません)。
関西や関東の都会で生まれ育った中学生や高校生が、たった1泊でも2泊でも、西海の暮らしの価値観や人々のあたたかさにふれるとき……。私がNZで衝撃を受けたように、「こうでなければならない」という狭い常識の檻を抜けて、「こんな生き方、暮らし方もあるのか」と感じてもらえればうれしいですし、今はピンと来なくても、やがて社会に出た彼ら彼女らが困難に直面したとき、ふと、地方での暮らしを思い出してくれればと考えています。
修学旅行で訪れる中高生や、若い世代に向け、「懐かしくてあたらしい暮らし」を伝えている
農林漁業体験民宿事業の意義と可能性
この農泊事業のおもしろいところは、取り組む地域によって、その「意義」や「価値」をどこに置くかの考え方が違うところ。どの地域でも市役所や観光協会などと官民連携で進めていくことが多いのですが、「農林漁業(一次産業)の活性化」という文脈で取り組む地域では「農林課」などが関わり、「交流人口の増加」という文脈であれば「観光課」が関わる、といった具合。しかし私は、地域をあげてより横断的に、多角的に農泊事業を推進することができれば、と考えているのです。
農泊事業の最もわかりやすい利点は、やはり「交流人口の増加」でしょう。修学旅行で訪れることが無ければ、子どもたちは一生、「西海市」を知ることは無かったかもしれません。磨けば光る小さな宝物はたくさんあれど、一般的にはキャッチーな観光資源が無い農村地域へ、農泊をきっかけに旅行者が増えるのです。
さらに農泊のいいところは、地元の人々とのつながりが生まれることで、交流人口から「関係人口」へシフトしやすいこと。実際に一般のお客様で移住に結びつく事例もありますし、今は中学生、高校生の子どもたちが、将来西海市を再び訪ねたり、暮らしたりしてくれる可能性もあるでしょう。
かたや地域にとっては、当然「地域にお金が落ちる」という経済効果もあります(民泊家庭が5名、修学旅行生を受け入れた場合、1回で3万円ほどの収入になります!)。継続的に安定した受け入れ・収入が得られれば、料理や釣り、庭いじりやものづくりなど、自分の好きなことや得意なことを活かしながら、無理なく副収入を得て、そのことがまた、あれもやってみよう、これもやってみようという活力を生み出します。
コロナ禍以前はインバウンド受け入れもあり、自分ではパスポートを持たないおばあちゃんの家に、中国人や台湾人の方がやってくる、そんなこともありました。月に1度でも、2度でも、若い人や外国人との交流があることは、この西の端の田舎で暮らす皆さんにとって、大きな刺激となるはずです。
このように、短いスパンで見れば、交流人口の増加や地域にお金が落ちることが、農泊のメリットです。しかし、そこからもう少し視野を広げれば、地域の人々のシビックプライドの醸成や生きがい・やりがいづくりにもなっており、健康増進や介護予防といった視点で、福祉的価値もあると感じます。さらには、移住や多拠点生活といった新たなライフスタイルを見据える人々にも、この土地と関わり続けてもらうことができますし、消えゆく暮らしの知恵や文化を継承することの価値や、子どもたちに伝えていくことの大切さは、いわずもがなでしょう。
こうしたさまざまな意義・効果を有機的につなげていくことができれば……農泊事業は単なる観光目線から一歩踏み込んだ地域活性化の事業として、多くの可能性を示してくれるのではないかと思います。
おわりに
「ながさき経済」と名のつく媒体、きっと読者の多くは、多様な分野で活躍される経営者やビジネスマンの方々であろう……と思うとき、私の話が何かお役に立つのだろうかと、逡巡してしまいました。ここまで読んでくださった方ならおわかりの通り、私は、“行き過ぎた”資本主義社会には反対の立場であり、こと「稼ぐ」ということにかけては、あまりセンスのない人間だからです(もちろん活動や事業を継続していくために収益を上げていくことは大切だと思っています)。
しかしながら「経済」という言葉は本来、中国古典の「経世済民=世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の略語、広く政治や行政全般を指す語であったことはご存知の通りです。であれば、「誰もが自分らしく、すこやかにいきいきと在る世界」を目指し、ローカリゼーションやまちづくり、コミュニティデザインの視点から活動を続けてきた私にも何か語れることがあるかもしれない……と思い、この記事を書かせていただきました。
私の西海市での暮らしは、もうすぐ丸5年を迎えようとしています。この土地を、思い描いてきたローカリゼーションの実践の場として生活していますが、矛盾も、葛藤も、山ほどです(笑)。そんな私に対し、地域の皆さんは「そがん、焦らんちゃよかたい」と、声を掛けてくれます。日々、自然を相手に農的な暮らしを送る皆さんは、時間の感覚や捉え方も、自然のスケールになっていくのでしょう。作物ひとつ育てるのに数ヶ月、数年という時間がかかり、ましてや自然災害で一瞬にしてだめになる、そんな「ままならない」世界を知る人たちの「焦らんちゃよか」には説得力があり、そんな言葉や価値観の一つひとつに、何年経っても目を見開かされ続けるのです。私はこの「実感の伴う小さなコミュニティ」での暮らしを愛おしみながら、今後も活動を続けていきたいと思います。