社会福祉法人 宮共生会 理事長 原田 良太
1978年長崎県佐世保市生まれ。高校中退後、福岡で和食の板前を目指すが、挫折して佐世保市へ戻りアルバイト生活。1999年より社会福祉法人設立準備に携わり、2001年より社会福祉法人宮共生会の職員となり、2004年事務長、2011年事務局長、2017年理事長に就任。社会福祉法人の理事長のほか、佐世保市早岐地区を起点として、地域での起業を促し、継続性を持った地域の活性化を目指す団体「hi!keyperson(ハイキーパーソン)」の代表も務める。その他、社会福祉法人ふるさと(西海市)の理事、社会福祉法人ながよ光彩会(長与町)の評議員なども務めている。
はじめに
はじめまして。今回縁あって寄稿させていただくことになった原田良太と申します。
経済関連の冊子に、しかも自分自身の事柄について整理しながら書いていくというのはこんなにも難しいことなのかと、軽々しく話を受けたことを後悔しながらも、折角なので自らを省みる時間とするつもりで書かせていただこうと思います。
私は、長崎県佐世保市瀬道町という地域で育ちました。元々は東彼杵郡宮村といわれていた地域で、1958年に佐世保市に編入し、その際旧瀬道郷が佐世保市瀬道町となりました。
この名残で、通った小中学校は宮小学校、宮中学校といいます。
宮地区は、長崎県佐世保市東南部に位置し、比較的農業が盛んな地域でもあります。みかんやナス、バラや菊の生産農家があり、とりわけみかん農家については徹底した品質管理により、単価では日本のトップクラスになったこともある地域です。
そのような地域であることから、幼少期は自然環境の中で遊ぶことが多くありました。宮地区には山も海もありますが、山側に住んでいたため、川遊びや山の中に秘密基地(ツリーハウス)を作って遊んだり、山に化石を掘りに行ったりして過ごしていました。
以上のような幼少期を経て、少し間違ってあまり興味のない工業系の高校に進学しましたが、2回目の1年生の時に中退し、そのまま17歳から働きだすこととなりました。
そこから紆余曲折があり、現在所属している法人に雇用されることとなりますが、その辺のお話を少しさせていただければと思います。
社会福祉法人宮共生会との出会い
佐世保市の職員だった私の父は、在職中佐世保市の福祉審議会の委員を務めたことがきっかけで、佐世保市に住む障害のある方の地域における生活実態を知ることとなり、その話を聞く中で、「いつか自分自身で障害のある方の役に立てるような活動をしたい」と考えていたそうです。
そのような中、宮地区近隣に住む障害児の保護者の方々から父へ「(障害のある)我が子の今後について」相談がありました。その相談の際、「(親亡き後を心配し)グループホームを作れないか」、「まだ若いので障害のある子供達の働く場所を作れないか」ということを含めたさまざまな話を聞くこととなります。
そこから、佐世保市を招いての勉強会を開催したりしながら、どのような活動を展開すれば障害のある方が安心して地域で暮らせるかを考えていきました。
検討を続けていた1998年頃、佐世保市には当時の障害者施策における知的障害者通所授産施設の定員枠が残っていることがわかり、まずは「障害のある方の働く場所」を作ろうということになりました。
現在は法体系が変わったため、NPO法人や株式会社でも福祉サービス事業を運営することは可能ですが、1999年当時は、第1種社会福祉事業に位置付けられた事業については社会福祉法人でしか実施することができませんでした。
そこで定員枠の確保と同時に社会福祉法人の設立認可に向けた準備を始める事となりました。
私には7つ上の姉と5つ上の兄がいて、姉は当時すでに結婚しており公務員でもあったため、兄と私の二人が父から呼ばれ、「これから退職金を含めたほとんどの財産を寄付する形で社会福祉法人の設立を進めて障害のある方の働く場所を作っていく、失敗するか成功するかわからない事業に他人を巻き込むわけにはいかないので二人のうちどちらか手伝わないか?」と言われました。
内心「俺らなら失敗してもいいってことか?」と思いながらも、末っ子である私は長男の回答を聞いてからと思っていたら、長男は即答で「俺は福祉の仕事はしない!」ときっぱり。それを聞いて「じゃあ俺が手伝おうか」と、かなり軽いノリで引き受けました。それから、当時アルバイトしていた居酒屋を辞め、社会福祉法人設立に向けた準備に取りかかりました。
設立準備とはいえ、ずっと書類ばかりを作っているわけではなく、昼は創設事業所の建設予定地の造成工事、夕方から書類を作って夜帰ってくる父に書類のチェックをしてもらい、修正をしてまた翌朝は造成工事といった調子で、当時は何をやっているかよくわからないと感じながらも前に進んでいました。
そうこうしている中、2001年8月に法人の設立認可をいただき、登記を完了させ、同年9月1日に法人の事務員として採用されました。
わらびの里スタート
国庫補助申請や建設に係る入札の準備等々を済ませ、翌2002年4月1日に知的障害者通所授産施設「わらびの里」をスタートさせることとなりました。
当時、私を含めた職員8名と障害のある20名の方と共に「農業」を作業種目とした新しい事業がスタートしたのでした。
開業前の準備もある程度進んでいたため、4月から夏野菜の苗の販売、田植え、季節野菜の栽培と収穫に至るまで、少しずつですが順調に作業を増やしていくことができました。
しかし、増えていく生産量とは裏腹に、数か月かけて栽培した作物は非常に安い金額で売買されており、農業の売上だけで障害のある方の所得を向上させることへの限界を感じ始めていました。
そこで、売上増を目指して2つの事に着手しました。
新たな事業展開
1つ目は今で言う農福連携の実践です。
宮地区は野菜やみかんの生産とあわせて菊やバラ等の花卉類の生産者も多くいらっしゃいます。その内の菊農家の方からの相談で、「収穫後の根を撤去する作業について、自分たちでやるには時間と手間がかかる、しかし、人を雇うには時間と金銭的なところで合わない」ということで、我々福祉の出番となり、地域営農者と福祉事業者が手を取り合って地域の産業を支える仕組みの実践が始まったのです。
地域営農者にとっては短い時間、必要な部分のみを頼むことができ、我々はその労働力に対する現金収入が得られることとなり、売上を増やすことができたのでした。
2つ目は「6次産業化」への取り組みです。
これまで1次産業で作られた生産物を、収穫→洗浄→袋詰めして、近隣の生産者市場等へ出荷していましたが、単価は非常に厳しく次の一手を考えなくてはならない状況でした。
そのような時、たまたま立ち寄ったコンビニで、キャベツの千切りが150g入って120円で売られているのを見て、二次加工して付加価値を高めることが重要だと気付きました。
というのも、それまで我々は1kg近くのキャベツを1個120円程度で販売しており、仮に千切りにしてパッキングすれば6袋くらいは作れるのではないか、5袋売れれば600円でこれまでよりも5倍に価値を上げることができる。
このような気付きがあり、そこからカット野菜工場の建設に向けた計画をしましたが、結局弁当工場にスライドし、2007年に「ハーベストキッチン」という食品加工所が竣工しました。
現在は1日300~400食、年間6千万円程度の売上を作り、14名の障害者雇用、その他地域の主婦層を含めたパートを10名程度雇用しており、地域の雇用創出を含めた事業展開ができたと感じています。
6次産業化への挑戦
食品加工所の建設をきっかけに、生産した作物をそのまま売るのではなく、第2次産業である加工所で付加価値を高め、第3次産業で販売をする仕組みを(規模は小さいが)作っていくこととなりました。
これでいわゆる1次産業×2次産業×3次産業=6次産業化と言われる形ができたのではないかと思っています。
基本的な考え方としては色々なモノづくりをする際、既存の価値をどこまで高められるかを考える癖がついたことが、今でも製品やサービス提供の際の基礎となっているように思います。
これからのこと
障害者就労支援では前述のようなことを実践してきましたが、障害支援の現場はそれだけではなく、最近は医療的ケアが必要な方の支援実践もしています。
事業所としては2012年から実施しておりますが、いわゆる最重度と言われている障害のある方が通所する事業所となります。
メンバー様[i]の中には、自らの力で排痰する力がなく、看護師による痰の吸引が必要な方や、咀嚼や飲み込みが難しいため胃に直接チューブを繋ぎ、直接経管栄養を注入する等の医療的ケアが必要な方など、障害児者が通所されています。
その保護者は昼夜を問わず、ご本人の命のために不可欠なあらゆるサポートに身を削られているという話を聞き、更なる事業展開を法人としても取り組むべく、現在次の事業を計画しているところです。
[1]宮共生会では、ご利用者様のことを「メンバー様」と称しています。
最後に
2002年にスタッフ8名でスタートした法人ですが、2023年4月現在で192名が所属する法人に成長しました。我々の法人事業が発展することが、障害のある方々の豊かな人生を創造し、地域の中で自分らしく生活することができる環境になっていくと信じて事業展開を継続しています。
我々のことをもっと知ってもらうきっかけを作り、障害のある方々の生活の質を上げていく取り組みをこれからも進めていきたいと考えています。