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長崎経済研究所

【新しい風】 私が長崎のまちづくりに目覚めたワケ

 

長崎都市・景観研究所/nullヌル  所長

長崎市まちづくり部 景観推進室 

                  平山 広孝
                

※掲載写真のなかにはクリックすると拡大できるものがあります。

1985年長崎市生まれ。

 和歌山大学システム工学部デザイン情報学科卒、九州大学大学院芸術工学府デザインストラテジー専攻修了、長崎県立大学地域創生専攻博士課程修了。専門は景観・歴史まちづくり。コンパクトシティとして長崎市が持つ価値に気づき、2010年3月に市民まちづくり団体「長崎都市・景観研究所/null」を設立。

2011年4月長崎市入庁。官民の二刀流で長崎のまちづくり活動に取り組む。

2023年10月「ほこみち長崎未来検討委員会」委員。

長崎で過ごした少年時代

 私は昭和60(1985)年に長崎市で生まれた。幼少期は中心市街地にほど近い風頭山の自宅と、家業だったクリーニング店のある銅座界隈の二拠点で生活していた。一人っ子だったこともあり、銅座では愛車の三輪車で界隈の飲食店やスナックを一人でハシゴする日々。昭和の大らかさのなかで地域の人々に育てられたという実感がある。家では絵を描くことと、積み木が好きな子供だった。

風頭山からみる長崎の街

 小学校はまちのど真ん中にあった磨屋とぎや小学校(現・諏訪小学校)に通った。行きは長崎の街のパノラマを拝みながら階段を下り、帰りは浜んまちの商店街を抜けてバスに乗る日々。小学校の頃の記憶はなぜか鮮明だ。児童の多くは商店街の子達で、風頭山に住むマイノリティの我々は田舎者の「風頭軍団」と呼ばれていた。長崎の秋の大祭「長崎くんち」の踊り町の子供も多く、くんちに出演する友人を羨ましく思っていた。そんな「くんちバカ養成所」として名高い磨屋小学校だが、まちなかの少子化は既に進行しており、周囲の勝山小学校と新興善小学校とともに統廃合により124年の歴史に幕を下すことになった。私の世代は磨屋小学校の最後の卒業生となった。当時の校舎は昭和初期の凝った設計で、立派な中央階段やアールヌーボー様式の手すりなど、子供ながら誇りを持っていた。閉校とともに、そんな自慢の校舎が壊されてしまうことに悲しみと疑問を持った。「こがん良かもんば、壊してよかとやろか」。これが自分のなかで、都市や建築に対する自覚を持った最初の体験だったかもしれない。

長崎市立磨屋小学校(出典:“08-40 1993年磨屋小学校” by 長崎市, CC BY 4.0, via 長崎市歳時記)

 中学校は桜馬場中学校へ。かの長崎甚左衛門の屋敷があった歴史ある土地に建つ名門だが、当時の私はそんなことには全く興味もなかった。勉強は嫌いだったのでテスト前だけの勉強で凌いでいた。部活は小学校の親友が入るという理由だけで卓球部に入部し、副キャプテンも務めたが試合では全く勝てなかった。中学校には伊良林小学校から来た生徒が圧倒的に多く、卓球部で出会った隣町の伊良林3丁目の子達と親しくなった。彼らは卓球部なのになぜか毎週末、風頭公園のグラウンドで草野球をやっていた。それまで野球には無縁だった私だが、誘われたので行ってみることに。5、6人でやる草野球は、テレビで観ていた野球の感じとは全く違ったが、ボールを打つ感触が気に入り、すっかり卓球部草野球サークルの一員に。週末草野球は高校卒業まで春夏秋冬問わず、ほぼ毎週続いた。

桜馬場中学校

 高校は総合選抜制度で長崎南高校へ。校区の関係で、中学校の友人の多くが長崎東高校に進学したので寂しく感じた。高校の授業は中学校までの付け焼き刃のテスト対策では全く歯が立たず、成績は下降の一途。二年時の文理の選択は、友人の多くが選択したという理由で苦手な理系へ。その結果、成績は学年最下位クラスまで暴落。所属していた卓球部も、ランニングや筋トレに目覚めて練習をロクにせず、いつの間にか辞めてしまっていた。そんな腐った時代がしばらく続いていたが、友人の影響でお笑い番組をよく見るようになる。お笑い番組のビデオテープを毎日のように図書室に持ち込んでは仲間たちと鑑賞する日々。仲間の一人と「長崎ちゃんぽんず」なるお笑いコンビ風のユニットを結成して、休み時間や放課後にネタ見せの真似ごとに精を出していた。芸人の養成学校があることを知り興味を持ったが、授業料が大学並ということで、それなら大学に行こうと思い直した。

 大学受験対策は「長崎ちゃんぽんず」の相方のススメで、センター試験の解答選択肢から正解を導く「ウラ技」の書籍を購入し習得。センター試験本番では直近の模試から200点アップという奇跡を起こし、一躍学年の有名人に。国立大学への切符を手に入れたことを確信し、当時付き合っていた彼女を家に呼び出し、目の前で自慢げに合否通知の封を切るもなんと「不合格」。二次試験対策に「ウラ技」はなかった。すべり止めの広島の私立大学への入学金の支払いは終わっていたが「このままでは俺はダメな人間になる」と直感し、彼女を部屋に残して台所へ。母親に「予備校に行かせて欲しい」と懇願した。母は驚きもせず「一年だけやけんね」と一言。

 いくつかの予備校の中から自由な校風に惹かれて野田ゼミナールに入学。予備校への通学手段として手に入れたのが中古のスーパーカブで、その後の私の人生において最も心強い相棒になる。あの合否通知の日から私は全く別人に生まれ変わった。母親への負担、1年しかないというプレッシャー、そして夢のような大学生活への憧れは、それまで嫌いで避けていた受験勉強に対する意欲を猛烈に押し上げた。朝から晩まで予備校に詰めて勉学に励んだ。センター試験は奇跡を起こした現役時代とあまり変わらなかったが、二次試験も何とか乗り越えて国立大学に合格することができた。昔からクリエイティブなことが好きだった私は、第一志望の九州大学芸術工学部には遠く及ばなかったが、地方国立大学では珍しくデザイン学科のある和歌山大学に入学を決めた。これが、その後の人生に大きな転機となることも知らず。

和歌山大学時代

 「和歌山」という地名は知っていたが、それまで行ったこともなく「みかんと梅」くらいのイメージしかなかった。地図帳を眺めると、大都市の大阪市から泉州南部に続く市街地が和歌山市まで広がっているように見え、想像するだけで心が躍った。

 一人暮らしのアパートを決めるために母親と二人、初めて和歌山市に降り立つ。JR和歌山駅には近鉄百貨店があり、駅前ロータリーから伸びる「けやき大通り」の街路景観には都市的な第一印象を持った。和歌山大学はJR和歌山駅から路線バスで30分程の高台にあり、大学移転により市北端の郊外に立地していた。大学近くの激安アパートで和歌山大学ライフがスタート。住まいの周辺にはコンビニやスーパーはあるが商店街はなく、長崎から運送してもらった相棒のスーパーカブなしでは、通学もバイトも友人と遊ぶことも難しかった。ある休日、友人と市中心部の「ぶらくり丁」という商店街へ出かけることにした。しかし、アーケードはあるものの店舗がほとんど閉まっていて、文字通りの「シャッター街」と化していた。実はこの数年で、ぶらくり丁にあった3つのデパートが相次いで閉店し、一気に寂れてしまったという。あの日、地図帳で夢見た大都市大阪の衛星都市というイメージと、JR和歌山駅で感じた都市的な印象は見事に崩壊した。

2000年代当時の和歌山駅前
友人と初めて行った和歌山市中心部ぶらくり丁

 さらに、入学後に大学周辺で3万人規模のニュータウンの造成が始まった。和歌山市の人口が約40万人なので、約1割の人が郊外に住むことになる。中心市街地が衰退するなかでの大規模な郊外開発を目の当たりにして、行政が進めるまちづくりに疑問を持つようになった。学科で出会った気の合う佐賀出身の友人と和歌山を脱出することを目論み、他大学への三年次編入を試みたが、予備校生のような苦行に再度奮起する気力もなくあえなく頓挫した。それからしばらくは、大学の授業や演習に本気で取り組むことができず、バイトやギャンブルに明け暮れる日々を過ごした。

2000年代当時の和歌山大学からの風景
和歌山大学の周辺で始まったニュータウン開発

 長崎にいる頃は、地方の狭い人間関係に嫌気がさして大都市に憧れ、長崎を出ることばかりを考えていたが、大学入学後の夏休みや冬休みは長期で長崎に帰ることが多くなった。そこで、自然豊かで歴史文化が色濃く残る長崎の景観の美しさに気付いた。そして「まちなか」に賑わいがあることに感動した。この長崎の価値の再発見という経験は、私の興味を「漠然としたデザイン」から「地方都市のデザイン」に目覚めさせた。大学の研修室配属では、学科で唯一の都市・建築系を選択。研究室活動に誰よりも真面目に取り組んだ。暇があれば日本全国の地方都市を訪れ、名建築ガイドを片手に片っ端から名建築を体験しに行き、必ずその都市の中心市街地を訪れて調査を行った。卒業研究・制作では和歌山市和歌浦地区という風光明媚な観光地を対象として、観光まちづくりについて研究、提案した。

卒業制作のプレゼンボード

九州大学大学院時代

 一緒に脱和歌山を企てた佐賀出身の友人が、九州大学大学院に「デザインストラテジー」なるユニークな専攻があることを見つけてきた。そこには「パブリックデザイン」という公共空間のデザインを専門とする研究室があることを知り、受験することにした。試験では英語と専門科目が科されていたが、予備校時代を彷彿とさせる猛勉強により無事に合格することができた。しかし、誘ってくれた佐賀出身の友人は不合格となり、単身で九州に帰ることになった。

九州大学大学院デザインストラテジー専攻のウェブサイト(当時)

 平成20(2008)年、九州大学大学院芸術工学府デザインストラテジー専攻に入学。受験生時代に憧れていた大学は噂通りとてもユニークだった。しかし、専攻で扱う分野の幅が広く、本格的にまちづくりや都市デザインを志す仲間には恵まれなかった。悶々としていたところ「九州デザインシャレット」という景観デザインに関する学生向けの設計合宿の存在を知った。平成20(2008)年度は故郷に近い佐世保市が対象だったこともあり、勢いで参加の応募をした。参加してみると、土木工学系の学生ばかりでデザイン系の学生は私一人だった。しかし、独学でまちづくりや都市デザインについて学んできた甲斐があり、土木工学系の学生達と熱く議論をすることができた。デザインシャレットへの参加は不安もかなりあったが、まちづくりの分野において新たな人間関係やスキルを構築することができ本当に参加して良かったと思う。翌年度は運営事務局にも手を挙げ、別府市でのデザインシャレット開催に奔走した。

九州デザインシャレットでの作業風景

 その頃、長崎市では「水辺の映像祭」という長崎県美術館を中心とした芸術文化イベントの学生ボランティアを募集していることを知り、こちらも勢いで参加してみることに。地元の大学の学生ばかりで福岡からは私一人だったが、学生メンバーともすぐに仲良くなった。映像祭には全国から多数の映像コンテンツが応募されることから、これを活用して夜の浜んまち商店街のシャッターに投影するアイデアを提案した。大人たちの実行委員会で提案は採用となり、一夜限りであったが想定を超える多くの方が来場され無事に成功。私にとって長崎のまちづくりプロジェクトに関わり、長崎の街の風景を変える初めての体験だった。

「水辺の映像祭」シャッター投影イベント

 先生の紹介で、「グッドデザイン賞」の審査をサポートする学生短期アルバイトとして東京に行くことになった。このアルバイトには全国からデザイン系の学生が50名ほど参加しており、懇親会の席で偶然にも長崎市出身の学生と出会う。よくよく話をしていくと同じ幼稚園だったことが発覚。長崎のまちづくりに対する想いも同じで意気投合。何かしようにも福岡と東京の遠距離だったこともあり、まずは長崎の都市や景観に関するブログ「長崎都市・景観研究プロジェクト準備委員会」を二人で開設することに。ブログには長崎のまちづくりに関する最新情報や、まちづくりに対する考えや提言など、二人で思いを込めて記事を書いた。

ブログのバナー画像

 就活では、まちづくりの経験を積むために大手不動産ディベロッパーを中心とした民間企業を志望。グッドデザイン賞のアルバイトで東京に彼女ができたこともあり、首都圏に照準を絞った。しかし、「まちづくり」に対する想いを全面に押し出した就活はあえなく全敗した。ディベロッパーが求めているのは「想いがある」ではなく「稼げる」人材だった。自分の将来を見つめ直すため、指導教授からの勧めで大学院博士課程に進学することにした。

 博士課程在籍時は、教授が検討委員を務めていた関係で、リニューアルが予定されていた博多駅前広場の舗装(ペイブメント)デザインに関わることに。私の提案が検討委員会で採用されることとなり、平成23年(2011)3月に完成した。完成した現場を見た時は感動で鳥肌が立ったとともに、数十年残るであろう都市デザインの責任の重さを知った。

博多駅前広場のペイブメントの検討図
完成した博多駅前広場

市民まちづくり団体「長崎都市・景観研究所/null」の設立

 半年ほどのブログ執筆活動を経て、平成22(2010)年4月、長崎のまちづくり市民活動団体「長崎都市・景観研究所/null」を設立。メンバーは私、東京で出会った彼、彼の友人の熊本大学の建築学生でスタート。ほどなくして活水女子大学のデザイン学生が加入して4人体制に。当時はSNS勃興期で、まちづくりに関する情報発信に力を入れていた。そのひとつが「激論長崎!朝まで生サラダ」。twitter(現・X)とライブ配信サービスUstreamを駆使して、長崎のまちづくりに関するトーク番組を配信した。「生サラダ」とは、「朝まで生テレビ」をもじったもので、長崎サラダ(皿うどんの細麺に生野菜を乗せたもの)を食べながら放送するスタイルを取った。

「朝まで生サラダ」キービジュアル

 7月には長崎市「若者のまちづくり施策提案制度」の募集を知る。1人あたり3万円の研究助成があり、これを活用して書籍の購入や先進都市への視察などを行い、年度末には市長にまちづくり施策の提案を行うという画期的な制度であった。当団体では活水女子大学のデザイン学生2名を新メンバーとして迎え6名のグループとしてこの制度に応募した。

長崎市若者のまちづくり施策提案制度のチラシ(当時)

 「斜面都市のリ・デザイン」をテーマとして設定し、当時、市内のモデル地区で実施されていた斜面市街地再生事業に関する調査やフィールドワーク、先進地視察などを実施した。その結果、斜面都市の課題は高齢者の偏在にあるとして、若者世代が斜面都市に来街・居住するための仕組みが必要であると考えた。市内の若者の居住や余暇活動のニーズについてさらに調査分析を行い、斜面市街地の空き地(ケーススタディとして北大浦小学校跡地を選定)を若者向けの交流型市民農園とする「さかのうえん」のアイデアに辿り着いた。年度末、市長に直接提案を行ったが、施策はお蔵入りとなった。その後にこの提案が大化けすることを当時の私はまだ知らない。

「さかのうえん」を市長に提案
提案した「さかのうえん」イメージ

長崎市役所入庁

 大学のプロジェクトや市民活動に没頭しながら、就職のことも考えていた。そんな折、横浜市の都市デザイナーとして活躍していた国吉直行氏のことを知る。市職員でありながら、都市デザインの専門家として全国各地で活動する姿に強い衝撃を受けた。一方で、まちづくりの現場における行政職員の課題にも気づいていた。「長崎のまちをより良くするために、長崎市職員となって国吉さんのような専門家になりたい」と思うようになり、長崎市の職員採用試験を受けることを決意。周囲からは「お前に公務員は向いていない」と止められたが、決意は固かった。都市デザインやまちづくりの仕事は土木技術織として採用される必要があり、独学で土木の専門試験の勉強をする日々。二次募集でなんとか合格することができた。このとき私は既に25歳。長崎市の職員採用試験の年齢制限ギリギリだった。

「二刀流」まちづくり活動家へ

 生まれ育った地方都市・長崎を疎ましく思い、大学進学を機に県外に出た私。大学4年間でまちづくりの重要性と長崎の価値に気付き、大学院の3年間でまちづくりの専門知識や人脈を構築した。偶然の出会いもあり、平成22(2010)年4月に学生ながら長崎でまちづくり市民活動「長崎都市・景観研究所/null」を設立。就活の失敗など紆余曲折を経て、平成23(2011)年4月には長崎市役所の職員となり、7年ぶりに長崎の地に帰って来た。この時から、市民活動と市職員の「二刀流」のまちづくり活動の日々が始まったのである。

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